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こんにちは!
お読みいただきありがとうございます。
この記事では、私のこれまでの経験やその時思っていたこと、
そしてこれからのことについて「もっと私のことを知っていただけたらな」
と思って書きました。
2010年 東京医科歯科大学医学部保健衛生学科検査技術学専攻卒業
2013年 東京医科歯科大学大学院医歯学総合研究科修士課程修了
2013年 東京大学医学部附属病院検査部入職
2016年 結婚
東京大学医学部附属病院退職・夫のアメリカ留学に帯同
2017年 長男出産
2018年 帰国して東京へ戻る
医薬翻訳業開始
2019年 長野県へ転勤
次男出産
2020年 東京へ戻る
東京医科歯科大学病院にパートとして就職
2021年 コーチング業開始
現在に至る
目次
人生で一番忙しかった!大学4年生~修士課程
キャリアとライフプランのはざまで
私は大学4年生のとき、生理学研究室に所属して事象関連電位(MMNやP300)の研究を開始しました。
自分で研究計画書を書いて、被験者を募って、論文を書いて・・・
すべて初めての経験でしたがどれも新鮮で刺激的でのめりこんでいきました。
そのまま大学院へ進学し、研究を続けました。
当時、私が描いていたキャリアプランは、
大学院在学中に論文を5編書く
↓
東大病院病院に就職して在籍中に博士課程を取得する
↓
3~5年で退職して母校の教員として学生を指導しながら研究を続ける
というものでした。
他方で、女性として、結婚や出産に対しても思い描く理想がありました。
- 25~30歳までに結婚をする
- 30歳までには初産を終える
キャリアプランと、ライフプラン、2つとも頑張り時の年齢が被っているのです。
さてどうしよう、そんな思いを抱きながら、とりあえず!目の前の研究に邁進しました。
論文を書かないと研究したとは言えない
その結果、全て筆頭著者として、英文2編、和文3編の論文がそれぞれの雑誌に掲載されました。
![](https://k-shomama.com/wp-content/uploads/2021/10/papers.png)
この論文たちは私の宝物です。
こうやって論文が世に出ると子供を成人させたような気分(?)ですが、形に残る財産の1つです。
修士課程で5編の論文を書く原動力となったのが、
恩師である松浦雅人先生のことばです。
「論文を書かないと研究したとは言えない」
「英文論文がないと一人前とは言えない」
「とりあえず5編論文があれば、検査技師の教員には手が届く」
どれも私の胸に刺さり、モチベーションとなりました。
よくばりな私。学会、留学、プライベート
論文を書くことも大変でしたが、結局修士課程が終わるまでに6つの学会(3つは国外)で発表をしました。
抄録の締め切りに追われ、ポスター作りに追われ、と思ったら論文の査読が返ってきた!!!
目の回るような毎日でした。
それに加えて、カナダのトロント小児病院の神経科へも短期留学しました。
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これらすべてが自費だったので、4つの病院でPSG(終夜睡眠ポリグラフィー検査)を掛け持ちし、
目をかけてくださった先生の研究のお手伝いをしたり・・・
でもお友達と旅行をしたり、飲みに行ったりする時間も大事!
ということで文字通り24時間フル稼働な2年間でした。
![](https://k-shomama.com/wp-content/uploads/2022/01/india_edited.jpg)
ひよこ臨床検査技師に・・・
好き放題ばく進した院生時代から一転、大学病院での臨床検査技師としての仕事は違った大変さがありました。
晴れて希望の東京大学医学部附属病院に常勤採用されたものの、配属先は「採血室」。
毎日ひたすら採血三昧でした。
多いときには1日100人以上を採血し、6月頃からは「採血困難者」を主に担当する採血者となりました。
臨床検査技師にとって採血業務は大切な業務ですが、当時の私は
「私、検査技師なのに何も検査してない・・・早く採血室を出たい」
他の動機は早くから検査業務に携わっていたのでなんだか取り残されたような気分でした。
結局1年半採血室にいたのですが、そこで努力が認められ、初年度から実習できていた学生の研究指導をし、
採血室に関する学会発表を英語の口演でさせていただけました。
![](https://k-shomama.com/wp-content/uploads/2022/01/東大学会_edited.jpg)
採血室の次は、「ジョブローテーション」。
生化学・免疫検査、血液検査、輸血業務、感染症検査を1年かけて回り、基本的な業務を一通り学ぶ期間となりました。
またその頃、上司から
「10年くらいは検体検査にいてもらうから」
と言われるのでした。
私は臨床検査技師として生理検査の教員になりたかったので、配属先は生理検査室が希望でした。
検査室の状況をみても、一度検体検査室に配属されたら生理検査室への異動は難しそうでした。
他方で、私は当時すでに26歳頃だったので、周りの友人が結婚するようになってきて焦り出しました。
「このままだとキャリアも結婚もできない・・・どうしたものか」
色々自分の大事にしたいこと、3年後の理想の自分についてなど熟考に熟考を重ねた結果、
「検査技師として3~5年働いたら、辞めよう、それまでに結婚して、他の仕事ができるように実績も作ろう」
と決め、病院ではしっかり働き、それ以外はTOEICの勉強をしたり(当時840点)、資産形成を実践してみたり。
婚活も積極的にして、今の夫と出会って婚約しました。
夫は婚約中にアメリカでの留学が決まったので、私は迷った結果、大学病院を退職して帯同し、
在米中に転職準備をすることにしました。
まだ見慣れぬアメリカの地で、ひたすらネット検索。
また、自分がこれまでやってきたこと、強み・弱みを徹底的に棚卸ししてでた結論。
「医薬翻訳業をやってみよう」
ということで、早速海外にも教材を送ってくれる翻訳スクールで通信講座を受講し、
他にも英語の論文を読んだり、TOEICの勉強をしたり(当時955点)、2年間勉強しました。
あとは29歳10か月、30歳目前で長男を出産。願いが叶いました!
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育児は思ったより大変。
右も左も分からないまま毎日が過ぎ、疲れが取れないまま毎日が過ぎていくのでした。
長男を出産する前は自分のことを考える時間やエネルギーがたくさんあったのに、
産後は自分のことを考える時間もエネルギーもない。ただ毎日が過ぎていいく。
ですが、産前に自分がやりたいこと、進みたい方向性について決めていたので助かりました。
決めていたことをただ進めるだけ。子育てをしながら転職準備を継続しました。
そして帰国と同時に複数の翻訳会社と契約してお仕事を開始。
翻訳業開始、しかしすぐに妊娠、
最初は右往左往しながら案件を受注し、預かり保育を利用して仕事を少しずつ増やしていきました。
翻訳のお仕事が軌道に乗ってきたころ、次男を妊娠。
妊娠初期からひどいつわりと切迫流産になり、安静となりました。
「本当はどんどん仕事をしていきたい、でもやはり子供の命は大事・・・」
「本当に子育て中は仕事を思う様にできないんだなぁ」と悩む毎日。
それでも、5年後、10年後の種まきだと思って少しずつでも仕事を続けよう。そう決めて今も仕事を続けています。
2人育児と私のキャリア
結局次男を妊娠する前は、2か月入院をしました。
その間もちろん翻訳のお仕事はストップです。
ものすごく焦ったのですが、「私はお腹の中で子供を育てている孵卵器なんだ」と言い聞かせ笑、
なんとか正産期で出産!出産直後から保活を開始して1か月半で復帰を果たしました。
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現在は2人育児をしながら、臨床検査技師としてのパート業とコーチング業を主に活動をしています。
臨床検査技師の仕事に戻ったのは、「やっぱり私のアイデンティティは臨床検査技師」だから。
ブランクが空いても、フルタイムでなくても、細く長く、臨床検査技師としてのキャリアを積み上げたいです。
他方で今は、「私のように悩んでいる人の役に立ちたい」という思いが強いので、
臨床検査技師を始め、キャリアとライフプランのはざまで悩んでいる方のサポートをすることに注力しています。
おわりに
ここまで長ーい文章をお読みいただき、本当にありがとうございます!
一筋縄ではいかない私のキャリアですが、自分なりに一歩一歩進んでいる実感があります。
あなたの人生も豊かでありますように・・・